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  • 執筆者の写真立命館大学 丹後村おこし活動チーム

【6月18日 訪丹】

ごきげんよう。

追い払うことを諦めたかのようにとろける蚊取り線香が短い夜をも悠長にさせるこの季節、いかがお過ごしでしょうか 

最近、更新が遅れているのもこの季節のせいにしておきます。



さて、今週は先週に引き続き、水田に生えた余計な雑草の処理をしました。雑草に養分と日射を取られないようにするためです。雑草の量自体はそこまで多くないのですが、大変な作業です。田んぼの中で雑草抜きをする時は足元の悪い状態での屈んだ姿勢と田んぼからの熱気に体力を奪われます。永遠にも思える時間、眼下の雑草と睨めあった後、ふと上を向きました。



それまで田んぼの表面に集められていた視線が、その視線が草を抜けると、そこは山であった。


我々は、気づかないうちに山々に囲まれていました。

そして僕の前には、麦わら帽子をかぶり入道雲を眺めた、ありし日の僕がいました。

親しみを持ちながら聳え立つ山々を見ると人は無条件に子供心に戻されるようです。









そのころ、こどもはみんなこどもで夏はうんと夏でした。









狭い田んぼの小さな雑草を見つけては抜くという目の前の雑草しか見えていなかった私たちに遥かに広がるその山々は、自分たちが人工的な農業体系に組み込まれた田んぼにいるのではなく、雄大な自然の中にただ存在しているのだと唐突に気づかせてくれました。

偉大な山は遠くから静かに見守り、それでいて近くから包んでいるようでした。





自然の力の偉大さを感じずにはいられません。





田んぼに対して、人間が出来ることは、自然の恵みの力に比べれば、本当に小さいものであると思います。


自然への充足を忘れたとされる現代人の我々にしては、毎週丹後の自然に包まれ田んぼを作るというのは生本来的であり、尊厳的な行為だと感じていました。しかし、その尊厳に実体は与えられるでしょうか



田んぼという原始的な自然農業の現場の中にいたとしても、それは他の生物のように真に自然に入っているものとは全く事を隔てます。

そもそも自然界では、食べ物というのは自然の恵みが、全生物に授けてくれるものだとされています。しかし人間は自然の力を人為的に利用し、自分たちのための食物を作ります。農業は、享受というより自然の操作です。


週末に丹後の田んぼに入り、自然的な生き方を探しているなどと考えている私達はいったい何者なのでしょう。あるいは。



では。



文責:服部

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